夢塾 ~私の夢探し~

人生を豊かに変える毎日の気付きを書き込みます。

2011年03月

行動を起こすせる瞬間は何を考えているのでしょう?
きっとそれは「できる」という直感が心の奥底からわき出ているのだと感じています。

でもそれは直感であって、現実としての裏付けはありません。
不安に駆られ始めます。「できるのだろうか?」
そんな時、人はその行動の先にある笑顔や感動をイメージしていると思っています。

見つからない震災の被害者を必至に捜索して人たちがいます。
見つかる遺体はもう腐敗が進み、家族の元に返してあげたいと願う強い思いがない限り続け続ける事はできない作業であろうと感じています。

思い出の遺品を探すボランティアグループもいます。
長い距離を歩けないお年寄りがその遺品を手にしたとき、どれほどの感動があるだろうかと考えたとき、生活の中の何気ない品々がどれほど人の心に安らぎを与えているかを思うのです。

「できる」と思える環境を作ることが必要です。
震災で家族を亡くした人たちが、「できる」と感じる復興を西日本はサポートし続けなければならないと感じています。きっとそれは多くの力を生み出すことになると思うからです。
東北の人たちがいつか本当の笑顔を取り戻すことができるように・・・

今日も自分ができることをメージしたいと思っているのです。


未来を描くイメージ力を鍛えていきたいと思っているのです。



昨日は、地域の為に利他的に貢献していらっしゃるたくさんの方々にお会いする事ができました。
お会いする切っ掛けを授けてくださった方も、何十年も地域の為に奔走してこられたであろう事を、ご一緒している数時間の間にヒシヒシと感じたのです。

他人((ひと)のために自分の人生の大半の時間を費やして働くと言うことは、相当の覚悟とその事が天職でなければならないのだと痛感しました。
それは、お会いした全ての人たちが、ご自身の軸の中で地域の為に貢献できる形を毎日模索し、苦しみ悩みながらも未来への希望にワクワクとしているお姿があったからです。

会社員という狭い世界の中で、どれだけ自分が無知であったかも感じました。
そして小さな事から、大きな事まで着実に進めて行く行動力とそれを支える人と人との繋がりの真の大切さを感じずにはおれませんでした。

人は、他人(ひと)のために何かをできることで自分の価値を見いだせるのだと思っています。
そして、その土俵を見つけるために紆余曲折の人生を歩んでいるのです。
その迷いの時間にどれだけ学び、どれだけ苦しみ、どれだけ人に出会い、どれだけ感動できるかが、その進むべき方向性を決めるのかも知れません。

できれば真っ直ぐに、前を見つめて歩んでいきたいと強く感じたのです。






誰かが見ているところでしか頑張れない人には、見たことのある花が咲く
誰も見ていないところで頑張る人には、いつか見たことのない花が咲く

こんな言葉がオーディオブックの中から流れてきました。
思わず涙がこぼれました。

たくさんの人が誰も見ていないところで頑張っている毎日があります。
どれほどありがたいと感動することでしょう。
でも、それを伝えるすべはありません。

小さなことでも少しずつ、自分ではなく他人のために頑張れる自分で有りたいと思っているのです。


先週末、ある銀行から電話がかかりました。
東北・関東大震災に対する義援金を立ち上げた関東の友人の口座への振込手続きの確認でした。

口座名は「会」という文字か抜けてはいましたが、振り込めないほどの口座の間違いではなかったと感じています。
きっと、振り込め詐欺を疑って確認してくださったのだと感じています。
面倒な電話だな・・・と思いながら、見ず知らずの人にやんわりと確認してくださった担当の女性に「ご苦労様、ありがとうございます。」とねぎらいたい気持ちになりました。

この震災の中、小さな猜疑心を抱かせる行動も聞こえてきます。
悲しい現実ですが、これも受けとめなければならない事実です。

そのような中でも、やはり日本人のすばらしさは絶対的多数として失われないと感じています。
東北方々の粘り強さは、数十年に数百年に1度繰り返される自然の猛威に培われていたのだと今更ながら感心するのです。

きっと、日本はこの未曾有の災害をトリガーポイントとして、人を繋ぐシステムも、人を守るシステムも、日本が進むべき経済的方向も見極めて行くことができるだろうと感じているのです。できればもう少しスピーディーに・・・

今、アメリカの精神科医ヘンリー・クラウドの著書「INTEGRITY」(リーダーの人間力」を読み始めています。
100ページ読んだところで、私の気付きインデックスは20余りも貼られています。

その本を読みながら、昨年から話題になっている、ハーバードのサンデル教授によるケースメゾット形式の授業を取り入れていた慶応大学ビジネススクールのことを思い出しました。
その授業は「組織マネージメント」、高木晴夫教授は授業を通して、将来の日本の経済を支えて行くリーダーを養成しているのです。

その高木教授が授業の中で学者的には「人間力」と言う言葉を使いたくないとおっしゃりながら使っていました。
論理的に物事を考えていく学者にとっては、人の行動も全て論理的に説明できなければならないのかもしれません。
でも、そこに人間の心の力があることは否めないのです。

この本をもっとじっくり読み進めて、自分に足りないたくさんの事実を受けとめたいと感じているのです。


あの大震災の後、きっとたくさんの方々が自分が何をすればいいのだろうと考えていると思っています。
西日本に住む私は、絶対的に東日本に送るために消費できないものを除いてはどんどん消費して経済を支えて行かなければならないのではないかと考えています。

物流の原点も分かっていない私の考えですからうまく行かないこともあるのでしょう。
でも、事業も部門が分かれていれば一つの部門の業績が下がれば、必ずと言っても良いほどもう一つも部門が支える事になります。

西日本は、「日本の経済を支える!」という、強い思いで個人も事業も動いていかなければならないと思っています。
かつて、戦国時代を超えて国が大きく変わったように・・・
戦争で負けた事により国が大きく変わったように・・・

人は勝つことよりも負けること、プラスよりマイナスなことの方が成長できるのだと感じています。
負けやマイナスをしっかりと受けとめて、そこから成長して行きたいと思っているのです。


今日は「方丈記」の第4章です。

(一)
 また、治承四年水無月
(みなづき)のころ、にはかに都遷(うつ)りはべりき。いと、思ひの外(ほか)なりしことなり。おほかた、この京の初めを聞けることは、嵯峨(さが)の天皇の御時(おんとき)、都と定まりにけるより後、すでに四百余歳を経たり。ことなるゆゑなくて、たやすく改まるべくもあらねば、これを世の人安からず憂へ合へる、げにことわりにも過ぎたり。
 
 されど、とかくいふかひなくて、帝
(みかど)より初め奉りて、大臣・公卿皆ことごとく移ろひたまひぬ。世に仕ふるほどの人、たれか一人ふるさとに残りをらむ。官(つかさ)・位に思ひをかけ、主君の陰を頼むほどの人は、一日なりともとく移ろはむと励み、時を失ひ世に余されて期(ご)する所なきものは、愁(うれ)へながら止まりをり。軒を争ひし人の住まひ、日を経つつ荒れゆく。家はこぼたれて淀河(よどかは)に浮かび、地は目の前に畠(はたけ)となる。人の心皆改まりて、ただ馬・鞍(くら)をのみ重くす。牛・車を用する人なし。西南海(さいなんかい)の領所(りやうしよ)を願ひて、東北の庄園(しやうゑん)を好まず。

(現代語訳)

また、治承四年六月のころ、突然遷都が行われた。まことに思いがけないことだった。そ もそも、この平安京の起源について聞いていることは、嵯峨天皇の御代に都と定まって以来、すでに四百年余りも経っている。よほどの理由がなくては、そう簡 単に都が改められるはずもないから、このたびの遷都を世の人々が不安になり、心配しあったのは、まったく当然といえば当然だった。
 
 しかしながら、あれこれ言ったところで仕方がなく、天皇をはじめ、大臣・公卿も皆すべて新都へ移ってしまわれた。そうなると、朝廷に仕え官職にある人 は、誰がひとりこの旧都に残っていようか、残るはずもない。官職や位の昇進を望み、主君の恩恵に浴することを期待する人たちは、一日でも早く新都に移ろう と努め、時勢に合わず世の中から取り残されて希望を持たない人たちは、不満をうったえながらも都にとどまった。軒を争うように立ち並んでいた人々の住まい は、日が経つにつれて荒れていく。家は取り壊されて淀河に浮かび、その跡地は畑となった。人々の気持ちはみな変わり、ただ馬や鞍ばかりを重んずる。牛や車 を用いる人はいない。そして、新都から近い九州や四国の領地を望み、東北の庄園は敬遠された。




毎日の出会いの中に、たくさんの気付きがあります。
小さな気付きを忘れないように心に刻みたいと思うのですが、何度も同じ気付きに触れない限り心に刻み込むことはできません。

でも反対に、辛いこと、苦しいこと、怒り、憤り・・・
こんな感情はできるだけ早く忘れたいと思っているのですが、いささかやっかいです。

ネガティブな感情はポジティブな感情よりも深く心に刻まれます。
それは自尊心を深く傷つけられるからだと感じています。

しっかりと自分を見つめて、自分が成長したいところを探ることが大切です。
つまり自分のダメな所を受けとめておくことだと思っています。

そうすれば、ダメな自分を責められたところで「その通り!」と受けとめる事ができるのです。
自分はそんなつもりではなかったと思うこともありますが、相手に伝わっていないことは事実なのですから、伝えられない自分を受けとめなければならないのです。

こう考えると、ダメ出しをしてくれる人はありがたい人になります。
ダメ出しをしてくれる人をもっと周りに増やしていきたいと思っています。

そしてたくさんの有意義な会話を広げていきたいと思っているのです。


今日は「方丈記」の第3章をお届けします。

~治承の辻風~
また、治承(ぢしよう)四年卯月(うづき)のころ、中御門京極(なかみかどきやうごく)のほどより大きなる辻風(つじかぜ)起こりて、六条わたりまで吹けることはべりき。
 
 三、四町を吹きまくる間に、こもれる家ども、大きなるも小さきも、一つとして破れざるはなし。さながら平
(ひら)に倒(たふ)れたるもあり、桁(けた)・柱ばかり残れるもあり。門(かど)を吹きはなちて四、五町がほかに置き、また、垣を吹き払ひて隣と一つになせり。いはむや、家のうちの資材、数を尽くして空にあり、檜皮(ひはだ)・葺板(ふきいた)のたぐひ、冬の木(こ)の葉の風に乱るるがごとし。塵(ちり)を煙のごとく吹き立てたれば、すべて目も見えず、おびたたしく鳴りどよむほどに、もの言ふ声も聞こえず。かの地獄の業(ごふ)の風なりとも、かばかりにこそはとぞ覚ゆる。家の損亡(そんまう)せるのみにあらず、これを取り繕ふ間に、身をそこなひ、かたはづける人、数も知らず。この風、未(ひつじ)の方に移りゆきて、多くの人の嘆きなせり。
 
 辻風は常に吹くものなれど、かかることやある、ただごとにあらず、さるべきもののさとしか、などぞ疑ひはべりし。


現代語訳

 また、治承四年四月のころ、中御門京極のあたりから大きなつむじ風が起こり、六条大路のあたりまで吹き抜けたことがあった。
 
 三、四町を吹きまくる間に、巻き込まれた家々は、大きな家も小さな家も一つとして壊れなかったものはなかった。そのまま平らにつぶれているものもあり、 桁や柱だけが残っているのもある。門を吹き飛ばして、四、五町も離れた場所に落ち、また、垣根を吹き払って隣の家と一つになっている。まして、家の中の家 財道具はことごとく空に吹き上げられ、檜皮や葺板のたぐいは冬の木の葉が風に乱れ飛ぶようだった。塵を煙のように吹きたてているため、まったく何も見え ず、風がものすごく鳴り響くので、人々の話し声も聞こえない。あの地獄に吹く業の風も、このくらいだろうと思われる。家屋が壊れて失われたのみでなく、こ れを修繕しているときに怪我をして、体が不自由になった人は数知れない。この風は、南南西の方角に進み、多くの人々を嘆かせた。
 
 つむじ風はつねに吹くものだが、これほどひどいものがあろうか、ただごとではなかった、しかるべき神仏のお告げであろうかなどと疑ったことだ。









今日、少しばかりの支援物資を送る手配をします。
日本国際飢餓対策機構の仙台支部で物資の支援の活動を行っており、そこへ広島から直接トラックで物資を運ぶこととなったようです。

地震発生直後から早く何とかしたいと思いながら、個人がほんの少し送る荷物を有効に届ける手だてが見つかっていませんでした。
米・ペットボトルのお茶・トイレットペーパー・ティッシュペーパー・おむつ・粉ミルク・ラジオ付ライト等・・・
会社の同僚も届けてくれることになっています。

寄付も始まっています。
会社で、地域で、ネットで、OB会で、各団体で・・・
そのタイミングになったときにできるだけ心を届けたいと思っています。

復興の為にどれだけの支援が必要なのかが試算できない状況です。
小さな心を継続して行かなければならないと感じています。

継続するためには、目に見える形の情報が常に入ってこなければなりません。
その為には、もっと支援している地域が限定されてそこに住む人たちの復興への進捗が見える形が望ましいと思っているのです。

そんな活動を全国の被災地以外の人が地域を分けてし続ける事ができれば、人と人が繋がった継続的な支援活動になるのではないかと感じています。
そんな思いを持つ人たちと繋がりが持てればと思っているのです。

今日は、「方丈記」の第2章をお届けします。

~安本の大火~

(われ)、ものの心を知れりしより、四十(よそぢ)あまりの春秋(しゅんじう)をおくれるあひだに、世の不思議を見る事ややたびたびになりぬ。
 去
(いんし)、安元三年四月(うづき)廿八日かとよ。風烈(はげ)しく吹きて、静かならざりし夜、戌(いぬ)の時(とき)(ばかり)、都の東南(たつみ)より火出で来て、西北(いぬゐ)に至る。はてには朱雀門・大極殿・大学寮・民部省などまで移りて、一夜のうちに塵灰(ちりはい)となりにき。
 
 火
(ほ)もとは、樋口富(ひぐちとみ)の小路(こうじ)とかや。舞人(まひびと)を宿せる仮屋より出で来たりけるとなん。咲き迷ふ風に、とかく移りゆくほどに、扇(あふぎ)をひろげたるがごとく末広になりぬ。遠き家は煙(けぶり)に咽(むせ)び、近きあたりはひたすら焔(ほのほ)を地に吹きつけたり。空には灰を吹き立てたれば、火の光に映じて、あまねく紅(くれなゐ)なる中に、風に堪へず、吹き切られたる焔、飛ぶが如くして一二町を越えつつ移りゆく。その中の人、現(うつ)し心あらむや。或(あるい)は煙に咽びて倒れ伏し、或は焔にまぐれてたちまちに死ぬ。或は身ひとつ、からうじて逃るるも、資財を取り出づるに及ばず。七珍万宝さながら灰燼(くわいじん)となりにき。その費え、いくそばくぞ。そのたび、公卿の家十六焼けたり。ましてその外、数へ知るに及ばず。惣(すべ)て都のうち、三分が一に及べりとぞ。男女死ぬるもの数十人、馬・牛のたぐひ辺際を知らず。
 
 人の営み、皆愚かなるなかに、さしも危ふき京中の家をつくるとて、宝を費し、心を悩ます事は、すぐれてあぢきなくぞ侍る。


(現代語訳)
 私がものの道理を理解できるようになってから、四十年余の歳月を送ってきた間に、世の中の思いもよらない出来事を見ることが、次第に度重なってきた。
 
 去る安元三年四月二十八日であったろうか、風が激しく吹いて、静かにおさまらなかった夜、午後八時ごろ、都の東南から火が出て、西北に燃えていった。しまいには朱雀門・大極殿・大学寮・民部省などまで燃え移り、一晩のうちにすっかり塵灰になってしまった。
 
 火元は樋口富小路とかいうことだ。舞人を宿泊させた仮小屋から出火したのだという。吹き荒れる風によって、あちらこちらに燃え移っていくうちに、火事は 扇を広げたように末広がりになっていった。遠い家は煙にむせび、近いあたりはひたすら炎を地面に吹きつけた。空には灰を吹き上げたので、それが火の光に照 り映えて、空一面が真っ赤になっている中を、風の勢いに堪えきれず吹きちぎられた炎が、飛ぶようにして、一町も二町も越えて移っていく。その中にいた人 は、生きた心地がなかったにちがいない。あるものは煙にむせんで倒れ伏し、あるものは炎に目がくらんでそのまま(焼け)死んだ。あるものは身ひとつで、 やっとのことで逃げたものの、家財道具を取り出すこともできなくて、多くの財宝はすっかり灰になってしまった。その損害はいかほどであったろうか。その時 の火事で、公卿の家は十六焼けた。ましてそのほかの一般の小さな家は、数えることもできない。焼失した家屋は全部で都の三分の一にも及んだという。男女の 死者は数十人、馬や牛のたぐいは際限がない。
 
 人の営みは、すべて愚かしく、中でも、こんなに危険な都の中に家をつくるといって、財産を使い、あれこれ苦心することは、とりわけつまらないことだ。


東日本大震災から11日目、被害に遭われている方々の心と身体の健康を心よりお祈りいたします。
祈りつつ、自分にできる小さな事が何なのかも迷っている自分の不甲斐なさを痛感しているのです。

そんなとき、鴨長明の「方丈記」を思い出しました。
週に1度、ペン習字を自宅で習っています。その8マス帳に方丈記を書き写してみました。
書き写しながら、時代の流れはこれほどまでに繰り返すものなのかを痛感しています。

そして日本人の気質はこのような時代の繰り返しによって養われてきたのだと思いました。
でも、今は世界と繋がっている日本なのです。
起きる現実は歴史の繰り返しであっても、起きた後に成すべき事は我慢したり、しょうがないとあきらめたりするのではない方法を次々と試していくべきだと思っています。

とかく日本人は、起動力がなく対面や立場におごり、甘んじているようです。
そしてそれは、こんな未曾有の事態の中でもうかがい知ることができるのです。

政府の中の誰かが、力ある誰かが、後の避難を顧みず成すべき最善の事を気づいてほしいと思っています。
そして心を尽くそうと行動している人たちの熱い心を、繋いでいってほしいものだと感じているのです。

今週は、「方丈記」の各章をお伝えしていきます。

~行く河の流れ~
 
ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮ぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例(ためし)なし。世の中にある人と、栖(すみか)とまたかくのごとし。
 
 たましきの都のうちに、棟を並べ、甍(いらか)を争へる、高き、いやしき、人の住ひは、世々を経て尽きせぬものなれど、これをまことかと尋ねれば、昔ありし家は稀(まれ)なり。或は去年(こぞ)焼けて、今年作れり。或は大家(おほいへ)亡びて小家(こいへ)となる。住む人もこれに同じ。所も変らず、人も多かれど、いにしへ見し人は、二三十人が中(うち)に、わづかにひとりふたりなり。朝(あした)に死に、夕(ゆふべ)に生るるならひ、ただ水の泡にぞ似たりける。
 
 知らず、生れ死ぬる人、何方
(いずかた)より来たりて、何方へか去る。また知らず、仮の宿り、誰(た)が為にか心を悩まし、何によりてか目を喜ばしむる。その主と栖と、無常を争ふさま、いはばあさがほの露に異ならず。或は露落ちて花残れり。残るといへども朝日に枯れぬ。或は花しぼみて露なほ消えず。消えずといへども夕を待つ事なし。

ー口語訳ー
ゆく川の流れは絶えることがなく、しかもその水は前に見たもとの水ではない。淀みに浮かぶ泡は、一方で消えたかと思うと一方で浮かび出て、いつまでも同じ形でいる例はない。世の中に存在する人と、その住みかもまた同じだ。
 
 玉を敷きつめたような都の中で、棟を並べ、屋根の高さを競っている、身分の高い人や低い人の住まいは、時代を経てもなくならないもののようだが、これは ほんとうかと調べてみると、昔からあったままの家はむしろ稀だ。あるものは去年焼けて今年作ったものだ。またあるものは大きな家が衰えて、小さな家となっ ている。住む人もこれと同じだ。場所も変らず住む人も多いけれど、昔会った人は、二、三十人の中にわずかに一人か二人だ。朝にどこかでだれかが死ぬかと思 えば、夕方にはどこかでだれかが生まれるというこの世のすがたは、ちょうど水の泡とよく似ている。
 
 私にはわからない、いったい生まれ、死ぬ人は、どこからこの世に来て、どこへ去っていくのか。またわからないのが、一時の仮の宿に過ぎない家を、だれの ために苦労して造り、何のために目先を楽しませて飾るのか。その主人と住まいとが、無常の運命を争っているかのように滅びていくさまは、いわば朝顔の花 と、その花につく露との関係と変わらない。あるときは露が落ちてしまっても花は咲き残る。残るといっても朝日のころには枯れてしまう。あるときは花が先に しぼんで露はなお消えないでいる。消えないといっても夕方を待つことはない。


東北地方を寒さが襲っています。
この寒さが今日は回復することを祈っています。

円高も進んでいます。お金の動きがひと昔前とは違っています。
こんな甚大な災害が起きている国の通貨の価値が高く評価されるとはどういう現象なのでしょう。

TVでは、中学生達が募金を募っています。
各地で、地震の被害に遭った人たちが支援の輪を広げています。

海外でも、個人のボランティアが広がっています。
小さな活動が、小さな思いが人と人を繋いでいます。

人々は口々に「ありがたい」「ありがとう」と、その支援に心からの感謝を表してくれています
支援を行っている人も、支援されている人も”心の湯たんぽ”が体を温めているようです。

こんな人の自然の姿に感動しているのです。




海外のメディアが日本人のすばらしさを報道しています。
そして、暖かい言葉を投げ掛けてくれています。

メディアで一部報道されているニューヨークタイムズに掲載されたエッセイの全文(翻訳)を載せてみます。

~日本へのいたわり、そして称賛~

痛ましい地震のその後、我々は日本の人々と思いを共にしている。
これは日本で記録された最悪の地震である。しかし、私が本紙の東京事務局長として日本に住んでいた1995年の阪神大震災(6千人の犠牲者を出し、30万人の人々が家を失った)において報道した経験を思い起こすと、私はこう付け足さなくてはならない。

「今後数日、数週間の日本を見ていよう。私たちはきっと何かを学ぶだろう」

日本の政府が特に地震をうまくコントロールしている、というのではない。
政府は1995年の震災においては救助活動の管理を完全に誤り、他国から送られてきた薬や救助犬を取り上げて、その名を汚すこととなったのである。
気も狂わんばかりの最初の数日間、人々はまだ瓦礫の下で生きていたのであるが、政府の無能によって不必要に死んだ人たちがいたのである。

しかし日本の人々自身の忍耐力、冷静さ、そして秩序は、実にみごとであった。日本でよく使われる言葉に「我慢」というものがある。
英語にはぴたりと当てはまるような訳はないのだが、言うならば "toughing it out."(耐え抜く)と同じような意味である。
そしてこれが神戸の人々が実際に行ったことであった。畏敬の念を抱くほどの、勇気と協調性、共通目的を持って。

日本の秩序と礼儀正しさに、私はしばしば感動していたが、神戸の震災後ほど、それに感動したことはない。神戸空港のほぼ全体が破壊され、街中の商店のガラスが割れていた。私は略奪や、救援物資をめぐる乱暴な押し合いへし合いなどの場面を街中探し回った。
ようやく、2人組の男に強盗に入られたという店主に出会い満足したところで、いくぶん芝居がかったふうにこのように尋ねた。

「同じ日本人が、自然災害を利用して犯罪に走るということについて、驚きはありますか?」店主は驚いたように「誰が日本人だと言ったのだ。外国人だったよ」と答えたのである。

日本にも貧しい人々はいる。しかし他の国々と比べると、極端に貧しい人々はほとんどいないし、非常に高い共通の目的意識を持っている。中流階級が非常に多く、実業界の成功者であっても、儲け過ぎていると思われることを伝統的に恥じる傾向がある。そのような共通目的意識は、日本社会の構造の一部であり、自然災害や危機の後では、特に顕著に表れるのである。

これについてはあまり良く言い過ぎてもいけない。日本の礼儀正しさの裏には、学校や職場におけるいじめや、不法行為によって利益を得るやくざ、政治家と実業家の癒着といった問題が存在する。しかし神戸の地震の直後、やくざまでもが被災者に食料などを配るためにカウンターを設置していたのは、衝撃的であった。
そして日本の社会構造は決して壊れることはなかった。
かすり傷ひとつ負わなかったのである。

日本人のこういった冷静さは、日本語の中に組み込まれているといえる。
人々は「仕方がない」と言うのが常であり、他の人にかける言葉として最も多いのが「頑張ってください」―耐え抜け、強くなれ―という言葉である。
そして自然災害は「運命」の一部と考えられている。16世紀の日本を訪れたイエズス会の者による、古い記述を読んだのを思い出す。地震が村を破壊したその数時間後には、農民たちは自分の家を建て直し始めたというのである。

忍耐強く、周りと協調して立ち直ろうとする精神は、日本人に深く根付いている。
私はしばらく長男を日本の学校に通わせたことがあるが、幼い子供たちが真冬でさえ半ズボンで学校に行かされている光景を忘れることができない。
気骨をつくるというのがその考えであったようだが、単に風邪をひかせるだけだと私は思っていた。しかしそれは「我慢」を徐々に教え込むためのまたひとつの努力だったのである。

そして「我慢」こそが、日本が第二次世界大戦から立ち直り、バブル崩壊後の「失われた10年」を耐え抜くことを可能にしたのである。
いやむしろ、日本人はもっと不平を言ったほうがいいのかもしれない。そうすればおそらく、政治家はもっと答えてくれるだろう。

自然との関係性については、もうひとつの要素が関連している可能性がある。
アメリカ人は、自分たちを自然と対立した存在として考え、自然を飼いならそうとする。
対照的に日本人は、人間は自然の一部であり、それに身をまかせるものと考える。
そしてその自然は、たくさんの地震をもたらしてきた。

1923年の関東大震災は、10万人もの命を奪っている。日本語の「自然」という言葉は、たった100年と少し前にできた新しい言葉である。なぜなら、そのような概念をわざわざ表現する必要が、伝統的に無かったからである。神戸の震災の後の本紙エッセイに、私が同じようなことについて書き、日本の最も偉大な俳人、松尾芭蕉の句で締めくくっているものがある。

 「憂き節や竹の子となる人の果て」

日本の回復力と不屈の精神に、私は気高さや勇気を見出している。
そしてまもなく世界は、それを目の当たりにするだろう。これはまた、綿密に編まれた日本の社会組織、その強さと回復力が、輝きを放つときでもある。
私は日本の人々は必ず力を合わせてくれると信じている。
その姿は、分裂と口論と私利私欲にまみれたアメリカの政治の現状とは対照的であると言っていい。

私たちには、日本から学ぶことがある。私たちの思いは日本に向かっている。
痛ましいこの地震に深い同情と、そしてまた、心からの称賛を表したい。

By NICHOLAS KRISTOF
(訳:英語塾 田畑翔子)

注:憂き節(うきふし)・・・辛いこと、悲しいこと

松尾芭蕉が生きた時代にも、こんな悲しい現実があったのでしょう。
心を合わせて、人と人が、地方と地方が、日本と世界がつながっていくことを願っているのです。




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