夢塾 ~日々の気付き〜

人生を豊かに変える気付きを書き込みます。

2010年08月

今日は”熱心”に物事を進めていくにはどうすれば良いかを考えてみます。

”熱心”を辞書で引くと
ある物事に深く心を打ち込みこと。またそのさま。
と書いてあります。

一生懸命は、ある一瞬の物事に関して取り組む姿勢
”熱心”は継続して取り組姿勢

”熱心”には、利己主義に頑張ることではなく、周りの幸せや未来を夢見る姿も感じています。

心を熱くして、物事に取り組む。
しかし、それだけでは物事はうまく進みません。
そこには、さまざまな事情が絡み合うからです。

国の事情、政治の事情、法律の事情、組織の事情・・・

熱心に考えていることが、自分だけの頑張りでは、周りを巻き込み期待だけを抱かせ達成できないという最悪の結果をもたらします。

熱心に考えていることも、それを達成するための冷静な判断力が必要となるのです。

熱心に考えていることを、冷静に見つめ直し、冷静に次の手段を練り、冷静に伝えて、冷静に協力者を増やしていく。

これが「熱い心と、冷たい頭をもて」というよく聞く言葉に繋がっていきます。

熱い心を、まずは冷静に見つめることから始めてみようと思います。

2週間ぶりに熱暴走で故障したパソコンが帰ってきました。
冷却ファンを交換したとのことですが、ファンの回転の音はほとんどしなくなり、驚くほど静かなPCとなりました。

ということは、購入当初からしていたファンの大きな回転音が異常だったのかもしれません。

とにかく、VAIOカスタマーセンターの方々お世話になりました。
快適にブログを書くことができています。

今日は”人心(ひとごころ)”の話です。

”人心(ひとごころ)”と聞くと、単なる親切でもない、優しさでもないもっともっと心のこもった感情のように感じています。

そんな”人心”を持つ人に出会ったとき、身体の芯の部分が”ポワ~”と温かくなるような、優しい気持ちが広がって嬉しくなります。
そして、その日1日がとても有意義に感じてしますのです。

それは、小さな小さな子供にも感じることが有ります。
子供は損得なく、それが誰かも分からずに、屈託のない笑顔を返してくれます。
それが、”人心”の原点なのかもしれません。

周りの人の言動の中に含まれる、”人心”をしっかりとキャッチし、常にその思いをくみ取れる人で有りたいと願っています。

そして、自分自身も”人心”あふれる人で有りたいと思っているのです。


まだまだ暑い日が続いています。

イタリアから里帰りしている友達に電話をしました。
毎日のあまりの暑さに、せっかく帰ってきたのに外に出かけていないというのです。
そして、その理由が・・・
「だって、化粧をして出かけようと思っも、右の眉を書いて、次は左と思う頃には、暑さでだらだらと右の眉の化粧は落ちてるんだもん。どこに行けやしない。」
いつも、ユーモアのある友達に感謝しつつ、その姿を想像して電話口でゲラゲラと大笑いしてしまいました。

今日はイメージ力の話をします。
今まで、大きなことでも小さなことでも”うまくできた”と感じるときには、”うまくいかない”と思うときと何が違うのでしょう?

私は最近それは、イメージ力の差ではないかと感じています。
些細な仕事でも、新しい事を始めるときになんだかモタモタしてしまうことがあります。
「何で、毎月うまくいかないのだろう?」
そんな時は、自分の仕事はもちろん、それにつながる回りの仕事も頭の中でイメージが描けていないのだと気付いたのです。

入社したての頃の、「業務フローを書きなさい」とよく言われました。
訳も分からず、書き方も分からず試行錯誤しながら書いたものです。
でも、その作業はその後に役立っていたようです。

でも今、したい思っていることのイメージがまだ描けていない事が悩みです。
描けていないので、進む方向もビジョンも明確にできていない・・・
できれば、私が矢面に立つのでなく、できるだけ多くの人が、みんなの描く理想の組織に近づいていることを、ワクワクしながら実感できるようにしていきたいと考えているのです。

まずは、自分のイメージを子供の頃に読んだおとぎ話の世界観ほどに、膨らませて行きたいと考えています。

そしてそれを、はじめは「何、言ってんだ!」と思っていても、現実として少しずつ変化を感じる事ができれば、それが臨場感となり、自分たちで組織を変えることがきると思ってもらえるのではないかと感じているのです。

まずは、ユーモアの心を忘れずにイメージを描いて行きたいと考えているのです。







まだまだ、エンジンがかからないまま仕事に突入しています。

私は今までどんなに状況が悪いときでも、仕事がとても楽しかったのです。
それは、第三者として斜に構えると”馬鹿じゃないの”と思えるほどに・・・

どこからその楽しさが生まれてきたのかを、最近よく考えます。

私は、これまで工場閉鎖、子会社への転籍、他社への企業売却、
他社子会社との吸収合併etc・・・
とさまざまな環境で仕事を続けなければなりませんでした。

その環境は、自分の努力や方法では解決できないほど悪い方に悪い方に転がっていたと思います。
しかし、救われていたのは私の気付かないところで、雇用が守られていたことです。
そこでは、さまざまな企業間の交渉が行われ、必死で私たちの雇用を守るための努力をしてくださった方々が居るはずなのです。
そして、もちろん私たちなど要らないといった人たちも・・・

そのようにして、与えられた環境が居心地の良いものではなかったことは言うまでもありません。

私たちの努力など評価の対象ともならず、何をやるにしても迫害のような試練が起きる。
それでも私が楽しかったのは、毎日が新しいこと連続であるということでした。
それは、私の最大の”強み”の「着想」を刺激して、ワクワクとしていたのです。
しかしまた反対に、その時の私に足りなかったことは、その状況をしっかりと把握し、私たちの努力など理解される基準がすこぶる低い事を前提に、すべての行動に理解を得るための努力を、注がなければならなかったことです。

企業はどのようなことがあっても、正当な評価をするものだと思い込んでいたのです。
そして、周りの人も見ていれば誰がどのような改善と工夫を繰り返しているかは理解してくれるものだとも思い込んでいたのです。

この「思い込み」は人生に大きな”霧(迷い)”を発生させます。
自分が良かれと思い、思い込んでいることは、本当は決して理解されていないと考えたほうがよさそうです。
だって、自分自身の「思い込み」でしかありませんから・・・

自分の言動は、揺らぎなく明確に伝わる努力をしなくてはなりません。
何故、こうするのか。
何故、こう思うのか。
そして、自分だけ頑張り努力するのでなく、みんなが協力して頑張れる環境をつくる事が、自分が頑張ること以上に必要であったことに今更ながら気付くのです。

誰もが頑張ることができるステージを創ること、これが今の私の目標となっています。
”思い込み”でなく明確な現実として・・・・

お盆休みも終わりです。

親戚も帰り、あわただしい非日常から日常へと修正します。
こんなとき、お盆を振り返り、弟姉妹の暖かさを思います。
いつも、私を見守ってくれてありがとう。感謝しています。

今日は、癒される事をお話します。

人は、どんな時に癒されたと感じるのでしょう。
姉は、専業主婦で自分の存在価値を見失って、毎日が退屈の連続であったとき、”韓国ドラマ”に癒されたといっていました。

そこには、どんな癒しがあるのでしょう・・・

きっと、”韓国ドラマ”の複雑な人間関係と、人生に翻弄される不遇な主人公の姿に、ある時は自分が主人公になり、ある時は自分が主人公の親になり、また、ある時は主人公をいじめる役になりと、あらゆるシーンで「なるほどと感じる臨場感」が有るのだと思います。

癒されるときは、
自分の感情にぴったりとした言葉をかけてもらったとき。
自分の”箱”から抜け出せない小さな自分の感情を、そんな事もあると暖かく認めてもらえたとき。
少し、厳しい言葉で自分を戒めてくれたとき

自分の感情のパズルにピタッとピースがはまった時に、「自分を理解してもらえた。」と感じるのでしょう。

だから、”韓国ドラマ”は人に勧めたくなる。
自分と同じ感情を共有したいからです。

でも、実生活では、この癒しを得ることはなかなか難しいですね。

そんなとき、少しユーモアのある言葉で癒してもらえると、嬉しくなってしまいませんか?
思わず泣きながら、ニヤ!っと、笑ってしまうような・・・

そしてそんな、癒しのできる人にあこがれてしまうのです。

責任が重くのしかかることがあります。

その責任が果たせるだろうか?
責任を負いつつ周りを信頼していくことができるだろうか?
自分の責任を周りに押し付けてしまわないだろうか?

と、その責任が始まる前から考えてしまいます。

でも、その責任をできるだけ”楽しく乗り越える”ことはできないかと思い始めています。

”楽しく乗り越える”には、まず自分自身が楽しくなる工夫をしなければなりません。
その責任あることを、徹底的に楽しむにはどうしたらいいかを描ききる。

だって、楽しんでいる人に出会うと、いつの間にか自分まで楽しくなってしまうことがありませんか。
そして、その楽しそうなことは、ついつい手伝いたくなってしまいませんか。

”あ~ぁ、これだ。”と思いました。
そして、少し気持ちが楽になったのです。

成し遂げるとは、自分のためであり、人のためになること。
責任を果たすことに、追い詰められる前に、楽しく乗り切るイメージを膨らませたいと願っているのです。




今日は「迎え火」、お盆の始まりです。

人生を積み重ねれば積み重ねるほど、そしてもう叶わないけれど、もう一度会いたい人たちがいませんか?

逢ったら何を話しましょうか・・・
そして、私はその人たちから何を求めているのでしょう・・・

それはやはり、
「よく頑張っているね。」と、褒めてほしいと思っているのだと思っています。

人生の一部を共に過ごし、楽しみ喜び怒り悲しみ・・・
そんな感情を共有してきた人たちです。

しっかりと空から見続けていてくれると信じていませんか?

そして、その人たちが居るからまっすぐ進んで行きたいと思っている。
自分の自己規律の支えとなっているように感じているのです。

脈々と続く人の流れは、自分のものであって自分のものでない、そんな感覚があります。

些細な自分が生かされている事、些細な自分ができる事、
そんな事を考えてみたいお盆や休みです。


今日からお盆休みです。

お盆になると、私の周りでなくなってしまった人のことを考えます。
そして、数年前、直木賞を受賞した天道竜太さんの「悼む人」の本を思いだします。

この本を読み終えたとき、子供の頃に買ってもらった本を夕暮れになるまで一心不乱に読みふけった時のような、えもいわれぬ充実感がありました。

それは、私の中の”悼む”という感情に響いたのだと思っています。

”悼む”という言葉には何か重く深い心の奥からの感情が感じられると思いませんか。

”悼む”を辞書で引くと、痛むと同語源だと書いてあります。
痛むの語意の中でも、「心に痛いほどの悲しみあ苦しみを感じる。」
「せつなく悩む。」という意味がそれに近いのだと思います。

でも、もっと私には深く豊かな感情のように感じられるのです。

亡くなった人を”悼む”だけでなく、過去に関わった人たち、過去の思い出深い出来事、頭の潜在意識の奥底の引き出しから、ショウノウの匂いのする大切な物を”あ~ぁ!これ・・・”と、両手で愛おしく持ち上げ、懐かしさに思わず感情が高まるような・・・

苦しみや悲しみだけでなく、楽しかったことも、支えになった出会いも、すべて”悼む”という感情の中に含まれると感じるのです。

そして、どんな出来事も、苦しみや悲しみよりも何故か豊かさの感情のほうがたくさん残っていることに気付かされます。

そんな心の”引き出し”にたくさんの豊かな出来事を刻み、また、一人で生きているのではないことに気付かされるのです。


今日はちょっとわがままな話です。

今、自分たちの周りで起きている改善を求めたいと考えていることについて、いくつかのアプローチの方法がありました。

そのひとつを、自分が想像もしていなかったタイミングで、依頼されそうな”うわさ”を耳にしました。
驚いた自分がいました。本当に考えてもいなかったので・・・

そうなると、私の頭の中はイメージが膨らみ始めます。
目指す目的はどうしようか
どんな行動が感動を呼ぶのか
誰にサポートしてもらえばいいのか・・・

ふと、気がつくとやる気まんまんになっていて、周りもそんな雰囲気・・・
でも、不安がいっぱいなのです。
”いや、待てよ。”自分が行動する事で、今までその改善のためにサポートしてくださっている方々の行動を無駄にしないか?
本当に行動できるのか?
目的に揺るぎはないか?

マイナスのイメージが膨らみはじめます。

そんなとき、私の弱点を指摘してくれる同僚がいました。
”ひとりでは、できない”という事を・・・

”じゃあ、本気で考えてそうするか、しないかを決定して!”と涙ながらにわがままを言っている私がいました。
それから、みんなは一生懸命考えてくださったようです。

しかし、そのときの私はほぼ100%依頼はされないだろうと想像していたのです。
みんなにそこまでの覚悟があると思えなかったから・・・

でも、現実は”お願いします!”と、みんなで改善を求め行こうとする言葉が帰ってきました。

私の甘い考えかもしれません。
私がどれだけ行動できるかも未知数です。
でも、みんなを信頼し、みんなで頑張ってみようという、
”うわさ”を聞いたときとは違うどっしりとした「覚悟」が生まれたのです。

このことは、本当に勉強になりました。
相手も自分も「本気の覚悟」が決まり、一体感という”臨場感”生まれてきました。
私ではなく、みんなで行動するという”感覚”です。

まだまだ、始まったばかりです。
ここから、どんなイメージが広がり実現していくのかが、楽しみになってきました。



過去の事を懐かしく思い出すことがあります。

私が幼いとき我が家の壁は落書きだらけでした。
それはもう見事なほどに・・・・
先日それをある人に話していたところ、傍にいた母が言いました。
「主人はいつも、”いいじゃないの。その内、書けと言っても描かなくなる。その時に塗り替えれば・・・”と言っていました。」と・・・・

私は、本当に温かい家族に育てられたものだと改めて感じたのです。

どうしてもかっこよく活躍できなかったスポーツ
どうしても人並みにしかできなかった勉強
夕暮れ時、泣きながら読みふけったあの本
最高に楽しかったあの夏の日
飼っていた亀がいなくなり落ち込む私を連れて行ってくれた水族館・・・
そこに居た”大きな亀”

どんな些細な思い出も、今の私を育ててくれた大きな糧なのだと感じています。

私を励まし、支え続けてくれる人たち
そして私を突き動かすどうしようもない”夢”たち

今、思い出を振り返りながら”周りが笑顔で満ちる幸せ”
そんな些細な、でも本当に難しい”夢”のためにまた動き出そうとする自分を感じているのです。


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