夢塾 ~日々の気付き〜

人生を豊かに変える気付きを書き込みます。

コロンビア大学シーナ・アイエンガー教授の「選択」の授業2回目の放送は
「あなたの人生を決めるのは、根拠は何」でした。
「自分で選んだはずのものは本当にあなた自身が決めたことだろうか。
実はその選択は 周囲や文化が あなたにそうしむけたのではないか?」と、問いかけます。

<意味ある選択をするには何が必要か>
人口比における富の再分配についての円グラフをがあります。
教授は、自由のためのフェアーな富の再分配とは何かを問いかけるのです。

①のグラフは5者に20%づつ(実在しない)
②のグラフは段階的で最高37%~11%まで(スエーデン)
③のグラフは差が大きく最高は84%~0.1%(アメリカ)
どのグラフが平等と言えるのでしょうか?

スエーデンは平等を意識しており、アメリカは個人を意識している。
あなたの収入額はあなたの親によって決まるところが大きい。

この円グラフはそれぞれ、国民が国家からどういう自由を与えられたいか?
それぞれの国民が考える「意味のある自由の違い」を示していると言っています。

富のフェアーな再分配の考え方の違いをスエーデン人とアメリカ人は持っている。
フェアーな自由の認知のしかたが違うことになります。

フェアーな自由とは、 from freedom ~からの自由(何ものにも妨害されない自由)
自分のしたいことは何でもしていいし、私は自分にふさわしいものはすべて手に入れるべきだ。

一方で、freedom to ~への自由(自分の可能性への実現への自由を与えられること)
例え自分が自分の夢を実現するために必要なものを持っていなくても、それを与えられる自由
思いきりプレーできるフィールドを整備してもらえる自由・・・
フィールドを整備するとは、それを持っている人からもっていない人に与えることになり、富の分配で考えると課税ということになります。

考え方の違いは国家の間だけではなく個人の間にも違いを生みます。
政治家や経済学者が言うような事でなく井戸端会議のレベルで「何もしないホームレスに手を差し伸べるべきなのか?」と、いう議論を交わすことがあります。

どうしても手を差し伸べなければならないとするならばどういう方法があるのでしょうか?
フェアーな自由に対する生理的、情緒的な考え方には、これまでの話から多様な意見があるとことになります。

意味のある自由への幅のある多様な意見をどのように調整して行けばいいのでしょう。
どちらが正しくて、どちらが間違っているかを、どうやったら説明できるのでしょう。

この説明をするときに使われるのが、様々な経済指標です。
GDPやジニ係数・・・
でも、もっとも大切なことは「どちらかがどちらかを叩きつぶす。」というものであってはならないと、教授は強く主張するのです。
どうやったら個人が最高に花を咲かせることができるのか?
どうやったら集団が最高の可能性を実現できるのか?

あらゆることについて、意味ある選択を私たちはしていかなければならないのです。

コロンビア大学シーナ・アイエンガー教授の「選択」の授業2回目の放送は
「あなたの人生を決めるのは、根拠は何」でした。
「自分で選んだはずのものは本当にあなた自身が決めたことだろうか。
実はその選択は 周囲や文化が あなたにそうしむけたのではないか?」と、問いかけます。

<誰が選択をするのか>
<誰がそれを支配しているのか>
<選択はどんな違った理解のしかたがあるのか>
<意味のある選択をするには何が必要か>
このような選択に対して世界共通の考え方を勧めていくことはできるのでしょうか?

アメリカ人はこれまでも、世界がどういう選択をするべきかを伝えるメッセンジャーだと考えていました。
そしてその選択の考え方は世界中から歓迎されると思っていたようです。
でも実際は、国や文化や人が衝突してしまいました。

世界中で起きている様々なできごとも、自分の文化や生活の中で起きていると思い、自分の尺度で考えてしまいます。
でもその当事者が、本当に自分たちと同じことを考えているのでしょうか。
自分の考える自由は、その当時者にとっても自分たちと同じ意味を持つものなのでしょうか。

自分のストーリーを理解させようとするよりも、お互いのストーリーを理解しようと努めた方が、失うものより理解できるものがはるかに多いのです。
互いのストーリーを理解し、学び、次の自分の選択肢を広げていく・・・
そうする方が、より素晴らしい価値を見出していけるのです。

文化的に異なることを理解することによって、価値を見出していく・・・
それに成功している企業がHSBC銀行です。
すべての国と地域の戦略を、ローカルレベルで行う企業です。
そのように多様な戦略でありながら、企業としてのアイデンティティの維持に成功しています。

HSBCでは従業員全員に対し、他の文化への理解を広げる教育をしています。
そしてHSBCに入社するものは複数の地域で働くこと、そして一つの地域に少なくとも3年間はいることを約束させられるのです。
その国に住み、その国の言葉を身に付け、その国の社会倫理を学び、その国の人々がどんな考え方を持っているかを学ぶことになります。
HSBCで認められるためには、様々なことを学び、少なくとも3地域での勤務経験が必要となのです。

国や地域を変わるたびに違いだけでなく同じところも見えてきます。
そんな経験の中から、新しい商品が生まれ、新しい商品を組み合わせ、その国や地域のニーズに答えることができるようになるのです。

エッセイスト ジョーン・ディディオンは言っています。
私たちは自分に物語をつむぎ、自分が見たものを解釈し、複数の選択肢から最も機能しそうなものを選ぶ

最後に教授は、このような多様な文化を理解するためには多言語仕様にならなければならないと伝えます。
そして多言語仕様とは言葉だけではないと、目が見えないご自身を例に付け加えるのです。

私は世界を目で見ることはできません。
でも、世界を知ることは私にとってとても重要でした。
見る。知る。観察する。
私はそれがどういうことなのかを、人の描写で理解しようとしました。
そしてその経験から、本当は見てもいないことを説明したり話したりすることができるようになったのです。
私には選択肢がない。と皆さんは言うかもしれません。
でも、私は視覚的な言語を学ぶことで私の人生は豊かになったと思っています。
見える人の世界と、見合えない人の世界の両方の可能性の理解することができたからです。

皆さんも、思い切って一歩を踏み出し馴染みのない言語の習得にも努力してほしいと教授は伝えます。
それがあなたの人生を豊かさに導いていくと・・・

コロンビア大学シーナ・アイエンガー教授の「選択」の授業2回目の放送は
「あなたの人生を決めるのは、根拠は何」でした。
「自分で選んだはずのものは本当にあなた自身が決めたことだろうか。
実はその選択は 周囲や文化が あなたにそうしむけたのではないか?」と、問いかけます。

<選択はどんな違った理解のしかたがあるのだろうか>
(選択肢はいくつある)
7つの炭酸飲料の写真を見せます。
これを見たときのあらゆる人のコメントです。
「どれが飲みたい」
「どれもいりません。だってどれもソーダですから。」(選択肢は一つだけ)
「どれも全部飲んだことがあります。これにします。」(選択肢は7つある)

次にベルリンの壁の話をします。
1989年11月9日ベルリンの壁は崩壊しました。
大勢に人がその状況を喜んでいました。
旧東ドイツには、スパーも少なくレストランのメニューも9割が出てきません。
そして、今もその状況は変わっていないのです。

不自由な状況の中でも、旧東ドイツのの人は東に住みたがります。
旧東ドイツの人の民主主義への満足度10%以下ととても低くく、変化への選択肢の多さに満足していないようなのです。
ベルリンの壁はなくなっても目に見えない心の壁は崩壊していないといえます。

ある時、アメリカ人の学生と日本人の学生に、朝起きてから1日の間にどれだけ選択をしたかを尋ねます、
アメリカ人の学生の選択肢は、朝起きる、歯を磨くなど多岐にわたります。
でも、日本人の学生には朝起きるや歯を磨くなどは、選択肢の中にないのです。

100か国以上で事業を展開している「City Bank」の世界中の従業員へのインタビュの結果では、
1日の選択肢が多いと感じているのは、アメリカ人、ラテンアメリカ人、アジア人の順番でした。
これらの違いはパホーマンスとモチベーションの違いにも影響を生んだのです。

アングロ系アメリカ人・・・選択肢が多いと感じる方がパホーマンスも貢献度も高く病欠の回数も少ない
ヒスパニック系アメリカ人とラテン系アメリカ人・・・選択肢の多さより、上司が自分を高く評価してくれているかと上司が信頼できる上司かどうかが、パホーマンスと貢献度に影響をあたえました。
アジア人とアジア系アメリカ人・・・選択肢が多ければ多いほどパホーマンスが落ちました。選択肢が多くなればなるほど上司は理解しているのだろうかと疑いを持ち始める。自分が選択して進めるよりも、仕事の方向性と焦点が定まっていることが、パホーマンスと組織への貢献度に影響をあたえたのです。

選択肢とは多ければ多いほど良いとは限らないということが分かります。
人は自分の感覚で他者に選択肢を与えがちですが、自分ではなく他者がどのような選択肢を求めているかが重要だと感じたのです。


コロンビア大学シーナ・アイエンガー教授の「選択」の授業2回目の放送は
「あなたの人生を決めるのは、根拠は何」でした。
「自分で選んだはずのものは本当にあなた自身が決めたことだろうか。
実はその選択は 周囲や文化が あなたにそうしむけたのではないか?」と、問いかけます。

<選択は誰が支配しているのか>
この課題で、大小の魚と藻がある水槽の画像を見せます。
そして何を見たかを問いかけます。
アメリカ人・・・大きな魚を見る傾向が高い
日本人・・・周りの状況を見る(かえる・海藻・巻貝など)傾向が高い
同じ状況の中でも両者は違うものを見ているのです。

なぜこのような違いが起こるのでしょう。
人は育つ環境の中で小さいころから社会からや親から、誰がその状況の中での支配者であるかを教えられるのだと言っています。
それは誰が支配者であるかを知ることで、その状況をどうすれば良いか。どうすれば成功するかを幹わけられるからです。
アメリカでは支配力を持つのは、個人なだと教えられますが、他の国では、支配力を持つのは環境だと教えられるところもあるようです。

オリンピックでの成功者のコメントにそれを探ることができます。
アジア人・・・コーチのメダルです。チームのメダルです。支えてくれた人のメダルです。
アメリカ人・・・今日起きたときからメダルが取れると思っていました。

コロンビア大学シーナ・アイエンガー教授の「選択」の授業2回目の放送は
「あなたの人生を決めるのは、根拠は何」でした。
「自分で選んだはずのものは本当にあなた自身が決めたことだろうか。
実はその選択は 周囲や文化が あなたにそうしむけたのではないか?」と、問いかけます。

1.誰が選択をするのか
「結婚相手を誰かに決められたいですか」
そんな問いかけに、生徒たちは信じらない・・という顔をします。

シーク教徒の多いインドでは現在もなお、75%の人が何らかの形でお見合い結婚をしています。
恋愛結婚も選択の一つだと知っていてもです。
アイエンガー教授のご両親も、結婚式の前日までお互いに会ったこともなかったそうです。

そんなインドでのこの2種類の結婚の判断をする「離婚率」と「幸福の度合」の統計があります。
インドでの離婚率は、お見合い結婚は5~7%、恋愛結婚は50%です。
離婚率はその環境に左右されますから、離婚が許されない文化では、不幸な結婚を続けなければならないことがあります。

結婚式をした日の幸福の度合は、お見合い結婚では恋愛結婚をした人ほど幸せではありません。
恋愛結婚をした人の幸福度は結婚したときに頂点を迎え、時間の経過とともに幸福度は下がります。
反対にお見合い結婚した人は、結婚式以降の幸福度は上がっているのです。

恋愛結婚とお見合い結婚を比較することは、意味がないことなのかもしれません。
どの国の夫婦も結婚し、子供を産み、子供を育てるこの過程は変わりません。
でも、関わる人間関係には大きな差があるようなのです。

お見合い結婚は、ルームパートナーやビジネスパートナーと似ています。
同じ目的や価値観を持つ二人の人間が一緒になり、努力してお互いをよく知り機能するパートナーシップを作り上げていく。
恋愛結婚は、愛情と言う情緒的な感情の上に成り立っています。
時間が経過してもその愛情関係を維持し高め、目的や価値観が違ってもそれを乗り越えていく絆を作り上げていく。


誰が選択するのかと言う問いに対する答えは、「常に自分だとは限らない」と言うことのようです。
選ぶのの私であっても、その選択が周囲に影響を与えることを考慮するならば、選択したのは「私」ではなく「私たち」なのだと教授は言っているのです。

確かにフリーな状態ですべての選択が行えているとは言い難いようです。
当然と思う選択の基本に、大きな規制があるかもしれいことを常に心に留めたいと思ったのです。



コロンビア大学シーナ・アイエンガー教授の「選択」の授業2回目の放送は
「あなたの人生を決めるのは、根拠は何」でした。
「自分で選んだはずのものは本当にあなた自身が決めたことだろうか。
実はその選択は 周囲や文化が あなたにそうしむけたのではないか?」と、問いかけます。

1.誰が選択をするのか
7歳から9歳の子供たちに、ある調査をしました。
日系アメリカ人、中国系アメリカ人、アングロ系アメリカ人が交じり合うようにして、三つのグループに分けます。
最初のグループは自分で選択するように求められます。
「六つの課題の内、どれをやりますか。何色のペンでその答えを書きますか。」

第二のグループは、それまで子供たちが会ったこともない先生から、
「この課題をやって、このペンで書いてください。」と指示されます。

第三のグループは、部屋に入ると先生から、
「みんなのお母さんは、この課題をやって、このペンで答えを書いてって言ってたわよ。」と伝えるのです。

どのグループが最もモチベーション高くこの課題に取り組んみ、成績が良かったのは誰でしょう。
アングロ系アメリカ人は、自分で選んだ時が最も成績が良かった。
それが先生だろうが母親だろうが関係なく、誰かからこうしなさいと言われ選択できないとわかるとモチベーションも成績も下がるのです。
メアリーは、自分がこうしなさいと言われたとき、がっかりし顔でこう言いました。
「なんで、ママに聞いたの?」

アジア系アメリカ人の子供たちは全く違う反応を示しました。
成績が最もよかったのは、母親からの指示があったと伝えられたとき。
次によかったのは、自分で選択したとき。
そして最も悪かったのは、アングロ系アメリカ人の子供たちと同様、それまであったこともない先生から指示されたときでした。
ナツミという女の子は、先生のところに来て先生のスカートの裾をつかんでこう言いました。
「ママに、ママに言われた通りにやったよ・・・って、伝えてくれる?」

アングロ系アメリカ人の場合、生まれたときから「自分は、自分自身だ。」と叩き込まれます。
でも、他の多くの文化では、人間関係を教えられます。
目上の人は何を望んでいるか。子供が何を望んでいるか。周りは何を考えているか。

これほどまでに、文化の違いは選択に大きな影響を与えているのです。



コロンビア大学シーナ・アイエンガー教授の「選択」の授業2回目の放送は
「あなたの人生を決めるのは、根拠は何」でした。
「自分で選んだはずのものは本当にあなた自身が決めたことだろうか。
実はその選択は 周囲や文化が あなたにそうしむけたのではないか?」と、問いかけます。

「これから異なる文化異なる精神について話をします。皆さんと世界へ出かけてみましょう。」

異なる文化の違いについて考えてみましょう。
インドネシアでは、人に足の裏を見せることは許されません。
ハイチでは知らない人が傍に近づいてきたら、例え母親でも子供にキスはしません。
邪悪なものが子供を見つけてしまうからです。

学生たちが続きます。
「西洋では挨拶のとき握手をしますが、東洋ではお辞儀をします。」
「集団的な観点から言えば、人を行動に駆り立てることが×とする国と報酬であるとする国があると思います。」
「集団と言うことで言うと、ある種の文化圏では上司のような目上の人たちに対して意見を言うことはよくないとされています。」

15年前、アイエンガー教授が日本の京都を訪れたときの話をしました。
甘いお茶が好きな教授はあるお店で緑茶を注文し砂糖を要求します。
でも、ウエイターは「緑茶には砂糖は入れません。」と強く答え、とうとう店長に相談するところまで行きました。
そして店長も「当店には緑茶に入れる砂糖はございません。」と答えるのです。
そこで、教授はコーヒーを注文することにしました。
でも、そのソーサーの上には砂糖がのっていたのです。

これは、選択がどういうものなのかと言う考え方の違いの例だと教授は説明します。
教授はお金を払って自分の好きなものを注文した客として、自分の好きな方法で飲む「権利がある」と考える。
だから、自分の要求が通って当然だと思う。
でも、日本人の見方からすればものを良く知らない人が誤った選択をしないよう守ってあげる「責任がある」と考える。
ものを知らない人が、恥をかかないように礼儀正しい方法でベストを尽くしてくれたのです。

選択という概念で考えるとアメリカ人は特に選択のし方において、自分たちこそが正しいと考えているのではないでしょうか?
アメリカ人のレンズを通してみた選択とは「誰もが生まれながらに持っている普遍的な欲望を最もよく満たすこと」を意味します。
アメリカ人は選択に対する自分たちの考え方は基本的なものだと信じているのです。
他の国ではその考え方が真実とは限らないということに思い至りません。

これからは選択の考え方の4つの基礎的な問いかけについて話し合います。
1.誰が選択をするのか
2.誰がそれを支配しているのか
3.選択はどんな違った理解のしかたがあるのだろうか
4.意味のある選択をするのは何が必要か

コロンビア大学シーナ・アイエンガー教授の「選択」の授業2回目の放送は
「あなたの人生を決めるのは、根拠は何」でした。
「自分で選んだはずのものは本当にあなた自身が決めたことだろうか。
実はその選択は 周囲や文化が あなたにそうしむけたのではないか?」と、問いかけます。

「これから異なる文化異なる精神について話をします。皆さんと世界へ出かけてみましょう。」


日本の震災
2011年3月11日金曜日、日本で大きな地震が起きました。
震源は日本の近海の海底です。
この地震はマグニチュード9.0
日本の観測史最大規模の地震となりました。さらにこの直後、最大規模の津波が沿岸に押し寄せました。
津波は高さ40mにまで達しています。

この津波で、福島第一原発の冷却装置が作動しなくなり,複数の原子炉でメルトダウンが起きました。
放射能は周辺に漏れ出し現在でも何万人もの人々が、避難生活を余儀なくされています。

この事故は日本だけの事故ではなく、世界にとっての事故でもあります。
想像してみてください。
自分が福島第一原発の作業員で選択しなければならなかったら・・・
速やかに避難して、自分と家族を守るか?
それとも作業場にとどまるか?

学生たちは答えました。
「例え留まるとしても、自分がメルトダウンを防げる保証はないし、家族と会える保証もない。
ですから後は、他の人がどうするかにかかっています。大勢の仲間が危険を承知して留まるというのならそれは集団として頑張るということですから。
一人ではメルトダウンを防ぐことは不可能ですから・・・」
「私は幼いころから栄光ある死を遂げるということが夢でしたから、留まります。
もちろん留まることで事態を救えるかどうかはわかりません。でも、より大きな善の為に貢献できているだという充実感は得られます。国のみんなの為に自分を犠牲にしているのですから・・・」
「私なら留まります。例え逃げても死ぬかもしれません。それにそんな非常事態には理性が飛んでしまって、自分が留まれば世界を救える・・・みたいな気持ちになると思うんです。」

実際はどうだったか・・・
福島原発の50人の従業員、後に福島フィフティと言われる人たちは逃げずにとどまり,不眠不休で原発を制御すべく働きました。
彼らは自分たちは死ぬかもしれないと覚悟していたかもしれません。
今日無事だとしても、数か月後はどうなるかはわからない・・・
浴びた放射能の量はけた外れの量でした。
それでも逃げようとは思わなかったのです。

これは日本でだけ見られる状況なのでしょうか?
日本文化の得意な例なのでしょうか?
この福島フィフティに相当する人たちはアメリカや中国、インドやブラジルにもいるのでしょうか?
いるのか?いないのか?この問いに対する答えはわかりません。
でも、私たちが知っているのは彼らが留まると決断したときに、その決断は国を象徴するものとなり、個人としてどうするかではなく日本人としてどうするかを示すものとなりました。
そして、彼らが下した決断は日本文化の理想とピタリと調和するものなのです。

コロンビア大学シーナ・アイエンガー教授の「選択」の授業1回目の放送は
「あなたの人生を決めるのは、偶然?選択?」でした。
この授業の中で選択できるということが本当に人の生死まで左右するのでしょうかと問いかけます。

アーロン・ラルストン(登山家)
2011年映画化された、アーロン・ラルストンの選択も究極でした。

2003年の4月の良く晴れた日、その日は土曜日で27歳の彼は山歩きに出かけました。
誰も彼の居所を知らず、彼がいなくなったことにも気が付きませんでした。
山登りの最中、彼は360kgの岩に手を挟まれます。
そして、その岩ごと谷に落ち、岩に手を挟まれたまま峡谷にはまってしまたのです。

岩に挟まれた手をどうすることもできず、彼は5日間助けを求めて叫び続けました。
もちろんその声は誰の耳にも届きませんでした。
彼は、遺言や遺品の分配について考え始めます。
5日目には水が底をつき、彼は自分の名前と生年月日死亡するであろう日付を岩に刻み始めました。
彼は「死」に備えていたのです。

そして考えました。
「このままこんなふうに自分が死ぬのを待つのは嫌だ。自殺した方がましだ。」

ここからどうやって自殺するかを考え始めます。
でも、自殺の覚悟をしたとき、彼の内なる声はこう叫んだのです。
「本当に自分を殺すのか?他に選択は無いのか?」

そして、その選択を声に出して言いました。
「そうだ!腕を切ればいいんだ。腕を切ればいいんだ。」

自分の腕を切断するのは簡単なことではありません。
彼が使えるの手は1本だけ、その手でもう片方の手の骨を折らなければなりません。
彼のポケットに入っていたのはたった5cmの切れ味の悪いナイフ・・・
たったそれだけで、腕を切断しなければならないのです。

皮膚や筋肉を切るために、腕の骨にひびを入れることに90分かかりました。
それからゆっくりと腕をナイフで切っていったのです。
腕を切ることができても、片腕で18mの高さの峡谷を降りなければなりません。
出血していて、空腹なうえに腕は1本しかないのです。
峡谷を降りて、10km歩いたところで彼は人に助けられます。

「このような物語を分かち合うのは、私たちの務めだと思う。」
とアイエンガー教授は言います。
誰の物語であっても、その選択の物語を伝えていく義務があります。

人生はあなたの持ち物を奪うこともあります。
家を奪うこともあれば、大切な人を連れ去ってしまうこともある。
でも、人生があなたから決して奪えないものがあります。
それは「選択の物語」です。

私たちの誰もが、逆境を経験し、今この瞬間にも難しい選択を迫られている人はたくさんいます。
私たちは可能な事と、不可能なことを見極めながら生きています。
限界にぶつかったときはそれを超えられるのか?受け入れなければならないのか?
を判断しなければなりません。
そのような難しい選択を迫れられたときは、登山家のラルストンの事を思い出してください。
彼の127時間を思い出しながら、まだ自分に何ができるのかを考えてみてください。
きっと、力が湧いてくるはずです。

選択が特効薬だと言っている訳ではありません。
選択がすべての問題を解決してくれるわけでもありません。
しかし、結局のところ
「選択は、今日の自分を 明日なりたい自分へと変える 唯一の手段 それこそが選択の力」
なのです。
と、1回目の授業は終わります。

この授業では、選択で自分の人生を大きく変えた人たちのことを語っています。
どの人の選択も深く素晴らしく、普通の人たちにできる選択ではないのかもしれません。
でも、小さな選択の中にもこれらの選択と同じほどの意味を持たせることは可能だと感じています。
その意味こそが、自分をコントロールし自分の選択に価値を見出し、自分を信じることができると思うからなのです。

コロンビア大学シーナ・アイエンガー教授の「選択」の授業1回目の放送は
「あなたの人生を決めるのは、偶然?選択?」でした。
この授業の中で選択できるということが本当に人の生死まで左右するのでしょうかと問いかけます。

スティーブン・キャラハン(ヨットマン)
1981年自分が作ったヨットで大西洋を横断したい!
そんな夢を実行に移した彼は、カナリヤ諸島を出発して1週間後に嵐にみまわれヨットは沈没してしまます。
彼は救命ボートの上で身動きが取れなくなり、水も食料もなく操縦もできません。
陸地からは何百kmも離れています。
嵐の後に訪れたこの危機の中で、彼はメモを書きました。

「私は頼りなく水に浮くこの小さなボートの船長だ。
九死に一生を得たが、今選択を迫られている。
自分自身を操縦して新しい人生へと導くのか、諦めて死んでいくのを見届けるか。
私はねばることを選んだ。」

そして彼はその時の状況をこのように語っています。
「私の人生は動き始めた。どうやってこの新たな状況から生き延びるか?
全く分からなかった。
長い時間だった。
ヨットが沈んでから新たな環境に適応するのに2週間かかった。
水と食料を確保し、日々の運動をこなし、生活を立て直したのだから一応適応していたと言えるだろう。
ひるんだ時期は本当に危機的だった。多くの人はここであきらめてしまう。
まだ、飢餓状態になっていないにも関わらず、2~3日で死んでしまう人もいる。
彼らは脱水や何かで死ぬのではない、そこであきらめてしまうんだ。」

彼はこの危機的な状況の中でも、選択をすることで自らをコントロールし生き延びることができたとアイエンガー教授は考えています。
雨水を集め、間に合わせのヤスを作り魚を取り、ボートについた藤壺を食べたりもしました。
弱った身体が許すときにはヨガをし、清潔さを保ち、日記を付けました。
そうする間にもボートは西に西に流されたのです。
76日後、カリブ海西インド諸島沖で彼はついに発見されます。
今日に至るまで、単独で海上で行方不明になり1か月以上生き延びたのは彼以外にいません。

どんな逆境の中にいても、このスティブン・キャラハンの事を思い出せば、あなたはどうするかと言う問いに
「選択する。」と、答えることができるでしょう。

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